なくたっていいもん

去年の暮れから自転車をやめた。
暮れの忙しいときにパンクして、なんとか直したんだけどその翌日に駅前に置いといたら放置自転車で持っていかれた。だってー、駅前開発とか言って勝手に自転車置き場を2個も閉鎖しちゃうから、国分寺中の自転車が怒濤のように残ったわずかな自転車置き場になだれ込み、昼過ぎ何ぞはどこに行っても満車の看板だらけで、仕方がないから駅前に、しかも土曜だから自転車狩りはこないと思ったノニー、と罪もない撤去自転車置き場のおじさんに愚痴りながら大枚2千円の身代金を払って取り戻したと思ったら、今度は走ってる最中にパーンってすごい音がしてパンク。中古で買った故のへたったチューbと、10キロの猫砂、2リットルの焼酎、等など我が家の生活必需品との戦いにけりがついたのが原因なんだけど、完全にぺしゃんこになった後輪をもちゃげるように家まで引いていきながら、だんだん腹が立ってきて「もうー、自転車なんかいらない」って気持ちになっちゃったんだよねー。
 ま、別に自転車に罪が在るわけじゃないんだけどさ、そりゃ、自転車は燃料は入らないし、排気ガスは出ないし(当然か)場所は取らないし、維持費が安いし、これからの時代にジャストマッチした乗り物だから、自動車が増えるくらいなら、自転車をもっと増やして、日本総天安門化計画を立ち上げたいようなもんだけど、こと、私個人の事情になると、そうもいってられない。
 なぜなら、私が住んでいる小平市ははっきり言って田舎で、ちょっと公民館に行く、とか、郵便局に行くとかっていっても、そのちょっとが妙に遠い。家の実家(新宿区)なんか、歩いて5、6分のところに郵便局や公共施設が在るし、都心に出るのにも近いから、駅まで歩いても苦にならない。しかしここ小平ではちょっとは15分以上だし、駅から都心までが遠いからせめて駅までは自転車で時間を稼ごうなんてサモしいことをしてしまう。ま、早い話が、何かと自転車を便利に使ってしまい、気がついたら自分の足で歩くことが、ほんと少なくなってたんだよねー。
 で、この事が私にどんな影響をもたらしているかと言うと、誰かと約束していても、自転車で行く事を計算に入れているからいつもギリギリで、結局待たせてしまったり、ほんのちょっと先のコンビニにまで自転車を使うようになったり、面倒な事を回避する傾向が顕著になり、それでなくても増え続けている体重も障害がないために止まる気配もなく、なんとなく、生活にメリハリがなくなったような、感じが強くなってたんだよねー。
 これじゃーいかんのよ。昔は玉川上水を毎日散歩して、一日1時間以上歩いていたし、歩いてる時はとても楽しくて、回りの風景や、花や樹や、木の実をみたり、触ったり、においを嗅いだり、体中の感覚がしっかり粒だっていて、そのひとつひとつが呼吸してているような実感が在ったのに、最近じゃまるでスクリーンでもみるように平坦で面白みのない風景の中を走っている。やっぱ、自転車から降りて自分の足で歩かにゃいかんのよねー。
 というわけで、歩きはじめて半月。始めのうちはおっくうだったけど、今では仕事も歩いていく。ただし買い物は重いのでこどもの自転車をかりていきますが。それでも、平均1,5時間は歩く。特にここ2,3日はコンサートのチラシをポスティングしているので、2時間を越える事も在る。うーん我ながらよく歩く。
 というわけで、便利で経済的な自転車のない生活がつづいてるんだけど、考えてみると人間が便利だとおもって作り出したものって、ほんとに必要なんだろうかねー。
 もちろん。自転車みたいに動力を人間に頼っている乗り物なら、そう環境に影響ないかもしれないけれど、自動車だって、飛行機だって、なんかねー、なかったらどうなの? ってとわれたら、「早く行けない」くらいの答えしかないもんね。じゃ、早く行けなくたって時間かければ行く方法が在るんならそれでいいじゃん、などとへりくつを並べたくなるくらいのもんだけど、世の中が「別に早く行かなくたっていい」っていう価値観になったらどうすんだろう。それでもやっぱり乗るのかなー。
ってそう考えていくと、なくたっていいものの筆頭は、私に取ってはやっぱり携帯電話(出ましたニックキ携帯)。もちろん、ご存知のとおり私は携帯を持っていないので、なくたっていいんじゃなくて最初っからないんだから関係ないのですが、その関係ない私めに、携帯電話が、なんと関係を迫ってきたんですよ、年の瀬に。
 その日上の娘が命より大切、まるでリオのカーニバルを待つその日暮らしの貧しいメイドのように心待ちにしている、リオじゃない東京ビッグサイトのコミックマーケット、ま、俗にいうコミケですな、に友達と待ち合わせして、チョー早起きして出かけていきましたのじゃ。ところが、なににしろ期待に胸がはじけそうで頭はもはや破裂しちゃっている朋代ちゃん(娘の名前)、うっかり携帯を忘れていっちゃった。しかも、忘れたときに限って友達が待ち合わせの時間に来ない、その上自分もちょっと遅れちゃったということで、彼女がおこって先に行ったのか、それともただ単に遅れたのかがわからない、わからないから携帯で確かめたいけど携帯がない、だから、どうしたらいいのかわんない、うーん、こうなったら自分ちに電話するっきゃない、とばかりに家に電話をかけてきた
「もしもしQちゃん、携帯忘れちゃったんだけどその辺にない?」
「机の上に在るよ」
「じゃ、携帯に友達からメールが来てるかどうかみて」
「メールなんて、見方知らないよ」
と、ここでちょっと解説。私のパートナーのQは、仕事上携帯をもってはおりますが、私に増して機械音痴の、ITぎらい。生まれてこのかたキーボードなんて触った事もなければ食べた事もない男なので、彼の携帯は文字通り携帯電話の受信と送信、つまり音声のみのコミュニケーション。メールの送り方も、受け取り方も全くご存じないから、朋代ちゃんが、いくら、メールをクリックしてなんて言ったって通じる訳がないのです。
「なんでもいいから、その辺押しテー」と絶叫すれど思いは通じず仕方なく一階目の電話は切れた。
「もしもし、母ちゃん、よっかったー、携帯忘れたんだけど、メールみてくんない?」
「めーる? そんなもんわかるわけないでしょ」
何をほざいているのかこの娘は、私がこんなに携帯を嫌っているのを知らない訳はないだろうが、バカモンガー、とはおもったけど、パニック状態の我が子にちょっと同情して(怒りの余り周りの方々に暴力的行為におよんではと言う心配も在った)携帯の画面のメールの所をクリックすると、あら不思議、なんと朋代ちゃんが探し求めていた友達からのメールが出てきたではないか、
「なになに、ごめんすごい寝坊しちゃって、今電車に乗るとこです。先に並んでおいてください。頑張って探します」なるメッセージ。
「むこうも寝坊したんだってさー」
「そうなんだ、じゃ、先に行ってるってメール送っといてくれる?」
「なにいってんの、メールの仕方なんかわかんないよ」
「じゃ、電話番号教えて」
「友達の電話番号くらいおぼえてないの?」
「携帯の中にはいってんだもん、おぼえてないよ」
「ほらみなさい。そうやってミーンナ馬鹿になっていくんだよ、なんだかんだ」
と説教モードに入った私に、ヤバいと思ったのか「じゃいいよ」と電話を切るともよちゃん。
かくして、携帯に頼りきって見事裏切られた娘と、触りたくない携帯に、無理矢理付き合わされて不機嫌になった母との、珍問答は終わったんだけど、こんな風に、関わらないぞとちかっても、知らん顔してずかずかと人の生活に割り込んでくる携帯の厚かましさには、ほんとうんざりさせられた。
ねー、ほんと、まったく、携帯ってね必要ないでしょ? 平和を脅かすでしょ。だから、やっぱり、なくていいものなんですよ。
 

あけまして


2010年、きてしまいました。子どもの情報によると2030年にはなんとか小惑星が地球に追突して、ついに地球はお釈迦になるそうなので、残り20年を切った何とも緊張感に満ちた新年なのだが、なんというか、地球がなくなるなんて、そりやガセでしょうといわんばかりのいつもと変わりない世の中の風景なので、私も別段地球最期の日に備えての用意などする事なく、第一その頃にはこちらももうお釈迦になってるかー(なんと恐れ多い)。ま、そのくらいでこの星がなくなってくれるんだったら、何も温暖化防止のためにやたら石油を節約する事もないし、20年しか持たない世の中なら、思いっきり借金しまくって、贅沢三昧、したい放題で終わりを迎えようではないかとも思うし、もしそうなら、70で昇天する予定をちょっとのばして、せっかくだから最期の日にみんなで一緒に死のうかなー、なんて甘いとことも考えたりして、思いは千々に乱れるのでは有りますが、それも、結局きてみなければわからない事なので、えー、逸れちゃったー? なんてことになったら、違う意味で地球崩壊、価値観逆行 全てがガラガラどんの、一発リセットになるので、うーん。それはそれで面白い。さて、この顛末、いかがなるものかちょっと楽しみー。

 と、相変わらず無責任な事言ってますが、新年に当たって、来し方を振りかえれば(滅茶苦茶似合わん) 去年はどんな年だったかというと、なんか記憶に残っているは、Qの膝を抱えた姿なり。
 なにしろ、去年は世間の情勢と同じようにQの仕事も思うようになくて、いつもなら悪くても2ヶ月に一回くらいは来てたのに、三ヶ月過ぎても仕事がない、これじゃ25年も続けた事務所ももっと家賃の安いところに超さなくては、と思えども、かすかに残った男のpライドがなかなかお尻を上げさせず、ぐずぐずしているうちに、借金は増え、その心労からか毎晩暗ーい顔して酒を飲みながら愚痴るようになり、気がつくと、両膝抱えてうずくまる姿勢が妙に似合うようになっちゃったんだよねー。
 最初は、「バーカ」とか言ってちゃかしていた私も、さすがに「こりゃヤバいぞ」と鬱の危険を察知。しょうがないから、夜遊日をお休みして、毎晩Qに付き合うことに……。
 励まさず、叱らずQのする事は全て肯定し、こうなったのは社会のせい、あんたのせいではないわいなーをお題目のように唱え、待つ事1ヶ月、やっと仕事が一個来て、二個来て、やれやれとおもったけど、ここ度油断しちゃいかんと、すこしきをとりなおしたQに、事務所移転を実行させたのが9月。それからは25年分のがらくたをどこにどう収納するか、家中に棚を作って役にも立たない花瓶や男bジェを置き、階段のわきはまるで陳列棚のようになり、ベッドの足元にも三段の棚と、もちろんそこに並ぶ陶器や銀器(地震がきたら確実に死ぬ) それでも溢れるがらくたを仕方ないので近くに借りたアパートに収納、なんとか治まったのが12月10日。なんのことはない、ほぼ一年かかっちゃいましたー。
 そんなわけで、いつまでも決断を下さないでいるとどんなに大変な事になるか、やっとわかったおばかなQのおかげで、老い先短い大切な時間をほぼ一年棒に振ったわたくしが年頭に当っていいたいのは「こらー、自分のことは自分でやれー」でございます。この言葉をもっとーに、今年は、好きなバレエと、タンゴと、新たに始めたカバキーニョを、思う存分、やりまくりたい、そして、もし後19年で地球が本当に終わるなら、その前に悔いのないように、毎日を楽しく浮かれて過ごしたい。と切に思うので有りますよ。文句っあっかー。でございます。


中はなに?

最近の正月のトピックは、どういう訳か福袋。昔はお年玉と一緒で中に何が入っているのかがお楽しみ、それがたとえ去年の残り物だろうと、サイズの合わない靴だろうと、それはそれなりに名前の通り1年のhukを占う、お祭り気分ですんだのに、いまはけっこうえげつない。
 サイズがわかるように表示されたもの、どのくらいの価値が有るのかがわかるもの、果ては、しっかり中身が見える物まで登場して、福袋の意味なんかまるでない。まったく、これじゃただのセールと同じじゃんとおもうのだが、存外これが人気なんだと言う。
 結局、何がおこるかわからない一年を占うより、はっきり目に見える福を手に入れた方が間違いがないっていうんだろうけど、つまんないはなしだよねー。そんなに先先の事までわかっちゃって、人間は何が面白くて生きていくんだろうか。第一、福袋の中の福が、本当に手にした人間にとっての福かどうか、欲しい物だけが入った袋さえ買えば、幸わせになれるのか、へそまがりの私には、疑問だらけのhuku でも今年もまた、朝のワイドショーは福袋の行列をわざとらしく放送するんだろうなー。

 電車に乗っていたら、携帯で道順を教えるナビのCMが流れていて、それに合わせるかのように「目的地に一番近い電車の出口」と言う本の宣伝が窓ガラスにはって合った。
 何時までにどこそこに行きたい、と思ったら、携帯ナビにどの電車に乗って、とこで降りて、どの道を歩けばいいという、詳細な情報を提供してもらう。もちろん、最近の電車は良く遅れるから、人身や信号事故の時は、乗り換えを変更して、一番効率の良いタクシー乗り場や、代替バスも教えてくれるんだろう。しまいには、歩道は時速何キロで歩き、隣にかわいい子がいても脇目を振ってはいけないとか、ハイヒールのとき、スニーカーの時の条件付き走行時間とか、もう、微に入り細に入り、かゆいところに手が届くも気持ち悪ーい、情報(と言うより命令か)になるんじゃないかと、他人事ながらチヨット心配してるんだけど(私は携帯持ってないので)。それに加えて、電車の何両目にのったら、行きたい出口に一番早く行けるか、なんて本まで出版されてるんじゃ、約束の時間に遅れるナンザ、もう犯罪なんじゃない?
だけど、そんなにまでして時間節約して、日本人は余った時間で何すんだろう。恋人とおしゃべりするのか? 読みたかった本を読むのか? 映画のはしごをするのか? それとも心行くまで友と飲み語るのか?
うん、だったら、携帯の言いなりになって、チヨットの間ばかになって時間を節約しても、それはそれでいいって思うけど、きっとそうじゃないんだよね。余った時間は、みんなまた仕事させられちゃうんだよねー。隙間なくびっしりと、余裕のない労働時間を課せられて、そんな事出来ないって思っても、「それじゃ出来るようにして上げましょう」なんておせっかいなやつらの、一見便利な、でもほんとは人びとを追いつめていく、やり方で、働かされちゃうんだよねー。
 なんかこわいよねー、つまんなすぎないか? せっかくつめに灯をともすようにして溜め込んだ時間なら、思いっきり自分のために使おうよ。間違いも、無駄もない人生なんて、考えただけでつまんない。そうおもいません?


変わるって?

 民主党の公約、公立高校授業料免除に、公立だけでなく、私立高校にも、補助金を付けようと言う動きがおこっているらしい。公立だけで、高校進学志望の子ども達を受け入れるのは物理的に無理なのだから、私立に行かざるを得ない子ども達のために、修学援助が必要ということなんだろうげと、私はちょっと疑問が有る。
 公立も私立も、行きたい人はみんな国が援助しますよ、って言う姿勢に文句が有る訳じゃないし、もちろん、うちの子は大学だから、もう援助してもらえないし高い税金払ってるのに、他の人ばっかり得してずるい、などというみっともない事をいってるんじゃなくて、私が疑問に思うのは、子ども達は本当に高校に行きたいと思っているのか、ってことなんだよね。
 そりゃ、人間教育を受けないと、いろいろな事でデメリットを受けるし、人格形成の上でもいい結果が出ないと思うけど、それって別に高校や大学にいった、いかないは関係ないんじゃないのかな。
特に日本は、義務教育の9年間の中で、必要最低限の読み書きそろばん、科学の知識、生活を楽しむ美術や音楽、生活して上で必要な保健の講習まで受けられるんだから、9年間で培った教養のベースは誰でも持っている。でもって、それを手に入れた上で、もっと数学のことを知りたい、美しい日本語に触れたい。地球の成り立ちを研究したい、などなど、自然にわき上がってくるたくさんの欲望を満足させるために、より深い知識を教えてくれる高校や、大学が有るんじゃないのかな。早い話が、生きていくために必要だと思うもの、知りたいと思うものをたろたろ取り揃えてくれて、それを教えてくれる指導者がいて、おまけにデリバリーまでしてくれる、とても便利な知識のスーパーマーケットみたいなところなんだよね。
 でもね、いくら便利なところでも、100人が100人スーパーで満足するとは限らない。志望者の中には地味な小売店の方がいいと思うやつもいる。みんながほしがる流行の勉強じゃなくて、一点物しか置いていない、鞄作りの技術が欲しいやつ。冷凍食品より近くの畑でとれた野菜を自分の手で料理したいやつ。建て売りを買うより、金槌とのこぎりで家を建ててみたいやつ。高校に入るために、みんなと同じような事を暗記して、神経すり減らして次に続く大学受験に時間を使うより、もっとたくさん実際の作業を体験したい。そういう子ども達はたくさんいるはずだし、そういう子ども達のための支援していかなくちゃ行けないんじゃないのかな。
 昔は読み書きそろばんが出来たら、後は学校には行かないで、やりたい事をやるために社会に飛び出していった人間がたくさんいたんだよ。だいたい大工にして左官にしても、旋盤、板金、腕一本で食べていくに足る技術を取得するには、中学を卒業したくらいの論理より、体が覚えると言う、かなり動物的な能力が必要で、見込みの有る子どもは、親方が文字通り親わりになってみっちり仕込んだんだよね。
 親の殆どが「せめて高校だけはいって」と、高校の卒業免状が人生の必携アイテムのように考えている今の世の中では、中卒で住み込みで働くナンザ、まるで奴隷商人に我が子を売り飛ばしたようなもんなんだろうけど、本当にやりたい事を見つけた若者にとって、知らない事は何でも教えてくれる、まるで奇跡のように素晴らしい物を作っていく親方は、真に尊敬する存在で、その親方のそばで暮らす事は、とても充実した日々なんじゃないのかなー。
 自分の生活を自分の技術で営んでいく、そのためには、高校や大学に行っている時間が惜しい、そう思っている子ども達って、本当は結構いるんじゃないかなと思う。だけど、どうしてもみんなと一緒じゃないと怖くて仕方ない親のせいで実行に移せない。一回しか生きられない人生を好きなように生きていけない子ども達が、自由に生き方を選べる、そんな教育体制って、できないもんなかねー。
 国民のための教育、人を生かすというなら、民主党も、思い切って、高校くらい行かなくちゃ、なんてつまんない学歴偏重主義を捨てて、高校なんか行かなくても好きな道に進めるようなシステムを作ったらどうなのかなー。
 物作りに従事する技術者や、芸術家を育てるための無料の施設をつくる。彼らの将来にかけて経済的な支援を奨学金の形で用意する。国民全員をサラリーマンにするような画一的な政策じゃなく、それぞれの資質と希望に合った道を探せる可能性を用意する。
 本当の意味でのチェンジって、こういうことをいうんじゃないのかな。ね、鳩山さんどう思う?

アフガンのこと

この間初めて東大、にいきました。赤門の本郷じゃなくて、こちらは井の頭線の駒場東大前。小さな駅から校内に入る道は全然いかめしくなくて、ちょっとおしゃれなキャンパスって感じ。校舎をつなぐ広い石畳にそって立つ大きなイチョウの樹は、季節柄銀杏の実がいっぱいなっていて、ちょっと臭い。けどさすがに落ちてる銀杏を血眼で拾ってる婆さんなどはおらず、道行く人も、え?これ食べられるの? なんて風情で歩いておられて、さすがに高い生活程度の匂いがいたします。で、わたしはといえば「くそー、割り箸とビニール袋もってくればよかったー」とかなり強く悔やんでいたりして、独りだけ生活程度の低さを漂わせながら歩いて、目的の八号館へ。
 なぜ東大の八号館かと言うと、アフガン問題のイベントで講演をお願いした映像作家の川崎さんの作品「ヤカオランの春」の上映とシンポジウム、なるものが学生(もちろん東大生)の主催でおこなわれるというので、心優しい川崎さんが、学生達のために独りでも多くの参加者を、と連絡をくださったので、それならひとつ覗いてみようかいな、ということになり、友人とやってきた。のだが、その八号館が見つからない。9号と10号は、表示しているのに八がみつからん。なんでやー、と焦っていると、なんのことはない、何も表示してないのがお探しの八号だそうで、9と10の間なんだから、八に決まってんだろうという、さすが、東大、ひとをこ馬鹿にしたような、そこまで言わなきゃわかんない?的、レクチャーのしかたで、ほんと、生活程度だけじゃなく、知的程度も低い私としては、いたみいっちゃったんだけどね。
 なんてつまんないことで手間取りながらもなんとか教室に滑り込む。
 「ヤカオランの春」は、アフガン難民の元教師の老人が、美しかった故郷を懐かしみながら、侵略され、空爆され、家族を守るために故郷を捨ててパキスタンの難民キャンpにたどり着くまでの道のりを、淡々と語るロードムービー。実を言うと私はこれで3回目、なので、長旅の疲れ(国分寺から駒場東大前まではおばさんには長い)で、途中から寝てしまいまして、こんなに深刻な内容のスクリーンの前で、すいません川崎さん、なのですが、(終わってから、何度も同じ映画を見てもらってすいませんと、川崎さん言われた時は、皮肉かと思いましたが とほほ) 2部のシンポジウムの方はしっかり聴きました。
 ゲストは川崎さんの他に、ジャーナリストの白川徹さん、RAWAと連帯する会のしみずさん。
 今のアフガンの、治安の悪化、カルザイ政権とタリバーンとの対立による政情の悪化。人びとは疲弊し、食べる事もままならない状況で、とにかく今すぐに何かの手を打たなければ、事態はますます悪くなる、と言う、希望のない現状報告と、その状態を少しでも改善するために、日本人もなにかをする必要が有る。ペシャワール会と、代表の中村医師のように、義援金の90%以上を実際の救援活動に使っている支援グループを援助しよう。と、なんだかペシャワール会の広報みたいな白川氏のはなし。
 確かに状況は悪くなっているが、なんとか希望を持っていたいと願う川崎さんのアフガンへの思い。また、難民キャンプの中で、アフガンの女性達の悲劇的な状況をなんとかしようと、原理主義者達から妨害を受けながら子ども達の教育に力を注ぐ女性団体RAWAを支援するグループ「RAWAと連帯する会」のしみずさつきさんの、年一回、六人くらいのメンバーで、パキスタンの難民キャンで活動するRAWAのひとたちを励ましにいってる。という、支援などという上から目線の表現ではない、正に連帯する事で、わたしもあなたも同じ女性として、同じように生きていく権利が有り、それが侵害されているのだったら、それを手に入れるための手伝いをしたい、という血の通った行動報告。
 三人三様の「アフガン」を聴いた後、参加者も交えての質疑応答に入った。
 
で、問題はここからなんだけど、質問に手を挙げた連中の関心事は殆どが、今や壊滅的な状況に陥ったアフガンが、これからどうなっていくか、自分たちができることはなんなのか、の2点に集中した。
 ま、そういうことになれば、どうしてもお答えするのは「ジャーナリスト」の白川氏になってしまい、話は崩壊しそうなカルザイ政権が、どのようにしてたくさんの部族でなりたつ多民族国家アフガンをひとつにまとめていくのか、いやそれができるのか、現在の状況を見ると、それはほぼ絶望的で、これからの展望などという物を考えるより、もっと現実的に、国民の飢えや、医療の遅れによる死亡率の高さ、未来に希望のない人びとをいかに人間的なエリアまで引き上げていくか、という事が先決で、そのためにはペシャワール会(またでた)のように実際に人びとの生活に入っていって、本当に役に立つ支援をしているグループに、金銭的援助をするような、地道な意識と行動力が必要だ。
 と、まるで、どうしようもない子どもをなんとか更生させるために、大人達が手を貸してやろう、っていう、なんていうか私たちは恵まれているから、可哀想なアフガンのために施す的なスタンスで、アフガンと日本は、完全に異次元で、私たちは外から見て食べ物を投げ入れればそれでいい、と、ま、これはチヨット言い過ぎかもしれないけど、とにかく、参加者(みんな男性)と白川氏の話合いの中に、富める物の傲慢な善意を感じちゃったんだよね。
 それに、三人のゲストのうち、2人が女性だと言うのに、アフガンの女性達が置かれている二重の悲劇構造に、少しも触れていないのは、いいたかないけど、男って、ほんと自分のコトッキャ考えらんない生き物なんだよね。
 だって、イスラムの戒律と、男達の都合、欲望のために、売られ、殴られ、想像もできないような悲惨な状況に有るアフガンの女性達のことは、アフガン問題に少しでも興味が有るものなら、当然知っているはずなのに、男達でさえ生きていくのが大変な国で、庇護もなく、力もなく、ただ男達が生きていくいくための道具にされる、まるで女性差別の極地に置かれたような女性達を気遣う言葉は、ひとこともない。
 それどころか、これは後で川崎さんから聴いたことなんだけど「ペシャワール会」の代表中村医師は、イスラム社会で女性差別と戦う女性に「その活動はわがままだ」、つまり、イスラム社会で女性が差別されるのは、それは文化なのだから、それは受け止めなければならず、いま女性差別の事を言い出すのは個人的な「わがまま」だっていいたいらしいんだよね。
 そりゃね、中村さんは男だからね、たとえ外国人だってアフガンで差別されたり、結婚を強制されたりしないもん、僕には関係ないでしょ。そんなことより、用水路を作り、水を引いて、食料を自給出来るように生活を立て直すことの方が大切なんだ。っていいたいきもちもわかるよ。でもさ、それじゃ、今同じアフガンの中で、ひどい目に有ってる男達によって差別、迫害されている女たちはどうなるのよ。男達が差別する事をやめればとり合えずは、女性の状況は救われて、問題はひとつ解決される(しかもそれは他国の力はいらない、自分達の決意次第でなんとか出来る一番経済的な方法なのにねー)
 動かしがたい宗教意識とか、男達の頭のなかに巣食っている硬くて深い因習とか、もちろん大変な問題では有るけども、少なくとも、よその国との際限のない戦いよりは建設的なんじゃないのかなー。なによりも、この問題を無視して、自分達の正当性を訴えても、私たち女性は納得出来ない。イスラムの戒律が文化というなら、せめてそれに抵抗して人間らしい生活と感情を取り戻したいと思っているいる女性達の言い分も、聴いてくれるような制度を設けてほしい。
 そう考えていくうちに、なんだかアフガン問題って、民族と民族、国と国との問題じゃなくて、男と女の問題なんだ、って言う事に気づいてしまったんだけど、残念ながらそれに気づき、なんとかしなけりゃと思ってるのって、殆どが女性で、ま、それはいつも差別されない立場にいる男達にその手の想像力は期待出来ないのかもしれないけど、そうはいっても、世の中男と女だけ(生物的には)なんだし、そろそろ男達にもそういう事に気づいてもらわないと行かんのじゃないのかなー。
 ねー、男子諸君。別にけんか売ってる訳じゃないけど、環境ホルモンや急激に変化していく自然環境に対応していく時点で、ただでさえf安定なY染色体は将来絶滅するって説だって有るんだからね。自分を守るためにも、女性に対する意識改革、よろしくお願いしますよ。
 話は全然変わるけど、韓国の歴史ドラマ「チャングムの誓い」に出てくる中宗王はすごいね。儒教の階級制度を無視して、女性で有るチャングムを、人格的にも、技術的にも素晴らしいチャングムを自分の主治医にしてしまった。宮廷中が反対したにもかかわらず、その権力を女性を認めるために使ったその強い意志と見識。アフガンのなかにも、こんなすごい人物がいれば、今の状況をなんとか出来るかもしれないのにねー。

民主党って、l

何度も言うようだけど、私は自民党が嫌いです。高い歳費をもらってるくせに、おのれの頭で物を考えようとしない無能さ、数が集まらなければ何も決まらない効率の悪さ。なにより利権が絡まなければ、何かお得な事がなければ積極的に動こうとしないコズルさが、どうにうす薄汚くて、テレビの画面に自民党の連中が映ると、いやーな気分になります。
 だから、今回民主党が政権を取ったおかげで、少なくとも朝から愉快とは言えない風景を見る事はなくなりましたが、いくら記録的な惨敗をして、うちしおれている議員達を見たって、同情なんて気持ちはわいてはきません。それどころか、次期総裁選で党内のやる気のなさを露呈し、名ばかりの役職を増やして気分だけ与党を錯覚している今の自民党を見ていると、やっぱこうなるのは当然の成り行きと納得してしまう。
 この上は、今までの旧態然、カビが生えたような自民党が出来なかったリベラルな改革をじゃんじゃんやってもらいたいものだ。男女共同参画推進だって、もっとおおっぴらに、婚外子の問題、結婚制度の改革、一人親に対する保護の強化、子どもの貧困問題、これは真っ先に貧困率を割り出して取り組んでもらいたい。などなど。これまで政治家なんかに頼んでもどうもならんわ、と思っていたけど、期待くらいはしてもいいのかもーとチヨット明かるい気持ちになっている今日この頃なのに、なのになのに、なんなの、テレビ、新聞、各マスコミの民主党たたきは。やれ鳩山の献金問題、やれ小沢の権力支配、国歌戦略室の混乱、各閣僚のhu協和音、毎日毎日次々報道されて、まるで民主党政権はどうしようもないといわんばかりの内容で、その度に期待に水を差されるようなイヤーな気分にさせられる。
 そりゃね、何事も裏と表、いいわいいわで過ごしてたらとんでもない事になる、って気持ちは大切だけど、それにしても何かつ突っつきすぎじゃないの? 米国だって、政権が変わってから何ヶ月間かは、ハネムーン月間ということで、好意的な見方をするって言うのに、日本人て、可愛そ風なやつには無駄に同情するくせに、勝ったがわにはやたら寛大じゃない。それって、批判する側に強い劣等感が有るからじゃないの?  って意地悪な言い方をしたくなる。だって、自信が有ったら、勝利を収めた物に対して本気で拍手が送れるもの、それが出来ないのははっきりいってやっかみじゃないの?
とにかく、まだ始まったばかりの民主党政権を、苗のうちに踏みつけてしまおうなんて根性は、みっともないし、これからの日本のためにもならないんだから、もっと鷹揚な気持ちで見てやってほしい。
 っておもってたら、なんか最近週刊誌、特に現代とポストが、以前の自民党たたきを思い出したのか、結構民主擁護にまわっているみたいで、なかなか面白い。依然と与党をたたく事に専念しているような新潮、文春、この2誌って、ライバルだったはずなのに、今や同じ路線なのが笑えるが……。と、どう戦うか、国民はどちらを支持するか、ちょっと楽しみなのだ。

 民社党の事は多少ごたごたしても多めに見たいと思ってる私だけど、石田純一は勘弁してほしい。もういうのもみっともないから言いたくないけど、それでも言わずにおれない腹立たしいあの プロポーズ。あれじゃまるでポルノ映画のイントロみたいだよ。
 だいたい、結婚の申し込みなんて、ごくごく個人的な事で有って、人様に見せるんじゃない。見せられた方だって面白くも何ともないはずなのに、よくするし、やらせる。もともとやな男だったけどあそこまで,
プライバシーを売り物にすると、逆にご立派といいたくなる。シャブののりピーもまっさおの、芸能人生命をかけた売りこみの必死さに、すこし背筋が寒くなるような、いやはやthis is 芸能人の神髄をみたような気がいたしました。できることなら、もっと若くてきれいで、被写体としての見るに耐える芸能人でやってほしかったー。
 石田純一がthis is芸能人なら、その政治家版の亀井静香ちゃん 上品な名前と、それにほど遠い容貌、静香より亀のほうがマッチしてる男だけど、最近言う事か面白い。経団連の親分に、家族殺人が増えたのは日本企業の非道のせいだと、詰め寄ったのはすごい。確かに、人を人と思わず、社員や雇用している人間を生産性を高めるための道具だと思っているような、人間性を欠いた日本企業の正体を暴いたのは見事。もちろん、そんな事とっくにわかってはいたけれど、当事者に面と向かって言い放つ大胆さを持った政治家は今までいなかったもんねー。閣僚らしくないとか、品が悪すぎるとか、色々言われておりますが、私としては、このくらい言いたいことを言う大臣がいた方が面白いし必要だと思う。がんばれしずかー。と当分応援する気でいる私です。

・・・

言い訳しつつ TV雑感

 前にも言ったかもしれないけど、今私は、カバキーニョというブラジル楽器にこっていて、暇さえ有ればポロポロと練習にいそしんでいる。バレエの次はカバキーニョかよ、と馬鹿にされそうだが、本人は至って本気で、3年頑張ってプロ
になるつもりでいる。だから、この練習は単なる50の手習いではなくて、将来年金も貯金もない私が、なんとか食べていくための技術取得の目的をもった、真剣な訓練なわけで、そうとなれば自ずと力も入り、時間もかけたくなり、で、1日は24時間しかないのだから、食べて、寝て、バイトにいった後の残り時間は、なるべくカバキーニョに、などと思っていると、当然、よた話しの更新をしている暇などなく、それでなくても、こんなもん誰がよんでんだかわからん状態の希薄な存在故、さっさと頭の隅に追いやられ、「やらなきゃやらなきゃ」と思いつつもー、
 なんていつまでもいい訳が増し行こと言ってると、ほんとに誰も読んでくれなくなるから、そろそろなんか書かなくちゃー。で、そういう時の埋め草にはぴったりのテレビ番組についてちょいといてみました。
 えっ?カバキーニョの練習でテレビなんか見ていられるのかって、もちろん、手はカバキーニョ目はテレビ、のながら練習ですので、はい。

ショップチャンネル
 一日中、商品の紹介ばっかりやってるショップチャンネルが面白い。
紹介する商品は、ドレスから靴、アクセサリー、鍋に化粧品、なんでもござれ。
それら雑多な商品を、見事なほど同じテンションで褒めまくり、勧めまくり、あおりまくるのをみてると、ついつい商品よりしゃべってる姉ちゃんの方に目がいってしまう。
 彼女達は、たいていは痩せていて、背は高くなく、なんとなくコレッと言う自己主張が感じられない体型。やっぱり商品が主役だから、目立っちゃいけないのか、どの人を見ても同じように見える、例えて言えばバスガイド。その存在は特徴が有るんだけど、誰がやっても同じという、本質的な無個性を感じさせるキャラターだ。その女性達が、ヘッドマイクに向かって、この商品がいかにすばらしいかをこれでもかこれでもかとしゃべりまくる。
 だいたい、ドレスだの靴だの、と言ったたぐいのものは、どんなに頑張って褒めたってたかが知れていて、せいぜい色がどうとか、素材がどうとか、くらいのもんで、肝心の着心地や履き心地は実際に試してみなきゃわかんないんだから、言ったって無駄、みたいなとこが有るんだけど、ヘッドマイクから飛び出してくるこまごまとした説明、それも、言葉の頭に、絶対絶対、とか とてもとても、とか ほんとにほんとにとか、繰り返される意味のない感嘆詞がついた、ま、それだけを意識したらとてもくどくて聴いていられない説明を聞いてるうちに、なんか、すごくいい商品のように思えてきて、しかも、画面の上の方に、残りいくつ、なんて数字が映し出され「お客様、なんと、グレーはもう売り切れでございます。残りのお色も後わずか」なんて言われちゃうと、買わなきゃそんそんって感じになって思わず電話、しちゃう、らしい。なんたって、すごい売れ行きらしいから、きっとこらしいは、現実なんだと思う。
 昔からバナナの叩き売りとか、蝦蟇の油うりとか、大道で物を売る時は、大衆の目と耳を惹き付けるそれなりの口上とはったりが有って、もちろんそれはインチキ。 だけどそのはったりにはちゃんと聞くに堪える商品価値が有ったもんね。みんなはなっから信じちゃいなかったけど、気がついたら買っていた的話芸が有った。早い話が客は売ってるものより、売り方に金を払ったんだよね。だけどこのショップチャンネルのお姉ちゃん達には、そんな芸はない。ただただ同じ言葉を連呼して、買い手を妙なパニックに陥れさせる迫力と、画面に映し出される残りいくつしかないぞー、という脅しを武器に、大道じゃ考えられないほどの売り上げを現実にするんだから、いやはやなんとも違う意味ですごいよねー。それにしても、店にも行かず、確かめもせず、いろんな物買っちゃって、今の消費者って、馬鹿なのか暇なのか、よくわかんないよねー。

 芸能人にみモラルなんて求めるな
 酒井和歌子じゃない、法子がシャブやってたって、私別にびっくりなんてしません。もとアイドルだろうと、清純派だろうと、芸能人とクスリ、特にシャブはきってもきれないものだったんですからね。
なんたって、その昔芸能界と言えばやくざ、そのやくざが仕切る興行で芸能人は出演料を稼ぎ、やくざは儲け、その相関関係を保つために、クスリや酒や金、女、なんていう、いうなれば゜快楽を伴う縄で縛られていたのが芸能人だったんだから、いくら時代が変わったからって、そうそう公明正大になれるとは思わない。ましてや、のりピーが活躍していたのは音楽業界でも、演劇業界でもなく、まさに、地方の公演で稼ぐ芸能界、だったんだもの、今までなかったのがおかしいくらいじゃ。
 それなのに、まるで青天の霹靂のようなマスコミの騒ぎ方はどうした。しかも、一番騒いでるスポーツ紙と、テレビ、一番いかがわしいとこと関係してる連中が、びっくり仰天のふりには、こっちがびっくりぎょうてんじゃー。
 第一、この手のタレントにモラルなんて求めるな、っていうか求めちゃいけない。なぜならば、彼女達の住む世界は、100%虚なんだから、その実感のない生活の見返りとして、へたくそな唄に何百万のギャラが払われ、生活感のない、一般庶民から見れば、うらやましいばかりの金銭感覚で毎日を送れる恩恵をうけているわけで、社会人としての自覚なんて持たないことで、私たちは「彼らは私たちと違う世界に生きている、当然我々の規範の中には入れない」いってみれば、同じ土壌に立つことを認めていない存在。だから、多少悪い事をしても、笑って許せるし、却って安心したりする。だって、間違ってもお手本にするような人間じゃないんだからー。って、思ってた昔は。
ところが、最近芸能人にも市民権が発生しているようで、人権だプライバシーだと、「私だって人間、仕事以外の事は自由にさせてほしい」と芸能人が社会が自分たちを理解してくれていると錯覚してしまうほど。結果「それじゃ社会人として、立派で善良な人間にならねば」なんてヤバい事を実践しようとするから、元々そういう風には出来ていない精神構造に負荷がかかりすぎて、へとへとになっちゃう。その反動で「いっそ飛んでやろう」なんて、くすりやっちゃうんじゃないのー。だいたい、本気で芸能人になろうと思った時点で、殆どは堅気に生きていく気質ではない事を物語ってる訳だから、そんな彼らに一般人の常識求めたって無駄なのよ。第一そんなもん持ってる芸能人なんて全く魅力ないしねー。
 って昔酔った勢いで語ったら、「そんな人だとは思わなかった」と、良識有る女性に非難された事有ったけど、いやいやそんな事で自説を曲げる私ではないので、今だに、しっかりそう思っとります。
 だってー、ほんとに一般人の感覚持ってたら、拘置所から出たその足で、記者会見ひらいたりしないでしょ。うーんかなりの強者。捕まりそうになったとたん、シャブ抜く事考えたのは、自然の成り行き。それに、お詫びは、あんたのおかげで部数をウン倍にも増や週刊誌や、視聴率がんがん上げて大喜びのテレビ局でもない。一人残されている息子にこそあやまらなきゃいかんのじゃないのかねー

くれよんしんちゃん 
 の作者臼井義人さんが遭難事故で亡くなった。個人的には全然縁がない人だけど、くれよんしんちゃんについては、子ども達が夢中で見ていた頃から、大人を大人としてみない、っていうか、大人の馬鹿さかげんを指摘しつつも、しょうがないなーと、許してくれるしんちゃんを、「おとなだなー」と大好きだったわたしは、その生みの親の死を、珍しく惜しんじゃったりしてる。
 そうだよねー、しんちゃんて、大人が見る子ども、大人が望む子ども、像を見事に裏切ってくれていて、その何とも的を得た受け答えに、いつまでたっても育ちきっていない私はすっきり壮快な気分になったものだけど、これから見られないかと思うとほんと残念。でもサザエさんの例のように、作者がいなくなっても、しんちゃんにいつまでも叱られたり、あきれラレタリしたい大人達が、よってたかって生きさせちゃうかもしれないね。なんにしても、面白くもない大人達に一撃を食わせてくれるなら、これからもしんちゃんを好きでいるつもりだから、そこんとこよろしく双葉社様。

湯浅誠氏

湯浅誠氏
 さめた物言いなのに妙に説得力が有って、日本の現状にaキれかえっているみたいなのに、周囲を少しでも変えていきたいと言う希望を失っていない。現実を知っているけど、現実に押しつぶされたくない、だからもっと現実を知ってその攻略法を考える。
 社会のため、人のためと声高に訴えるaつ苦しさより、考えついた方法を現実化していくpろせすを楽しんでいるような、日本人には珍しい乾いたユーモaを感じさせる、湯浅誠氏。年末の派遣村騒ぎの時から、「やっと、日本にも論理的に物事を語り、かつ実行する力が有る男がでてきたんだなー」と、ちょっと時めいてたんだけど、その湯浅さんが小平で講演するっていうんで、いい男好きの私はもちろん、いきましたよ。
 実際に見る湯浅さんは、テレビよりも柔らかい感じだけど、やせて削ぎ落としたような顎の線は画面そのまま。金属huれーむの眼鏡がよく似合っている。焦げ茶のVネックシャツ、ベージュのパンツ。別に取り立ててどうってことないけど、サリゲなくおしゃれで、野暮ったくないのはこんな活動をしている人には珍しい。裸足に革のサンダルの足もとも、なんかいー。
 って、外見ばっかり言ってるようだけど、人間て、日常の習慣や嗜好が人格を表わしている生き物だから、どんないでたちで、どんな仕草で、どんな癖が有って、なんてことがその人の人となりを知る大きなヒントになってたりするもんなんだよね。と言い訳したついでに言うと、湯浅さんの癖は、話しながら妙にペットボトルを触る事。机の前に置かれたお茶のボトルに飲む訳でもないのに手を伸ばしては、前に引き寄せて、手のひらで包み込む。キャッpの上から両手で押さえ込む。そしてまた元の場所に戻す。この動作を90分間の講演中、何度も繰り返してくれた。もしかしたら、ペットボトルhェチ?(笑) なんちゃって、でも、それも何となく、「好きな事やってるうちに、こんなところで話さなくちゃならないはめになっちゃって」的な部分を見せちゃったようで微笑ましい。
 もちろん、肝心の話だって、予想通り面白かった。ちょっと前に読んだ「反貧困」
と、最近出版された「どんとこい貧困」を紹介しながら、活動の拠点「もやい」で体験を淡々と話してくれる。それでも、著書の中でいつもいっている「自己責任」という言葉については、さすがに業を煮やしているのだろう。声に力が入る。
 職を失い、住まいを失い、人を信じる心を失った路上生活者の人びとに、「そうなったのはお前のせい」という自己責任論を振りかざす、自称文化人達から、怠け者の庇護者と非難されるたびに、頑張れ頑張れと言ってきたその言動が子ども達を追いつめ、弱い人たちをもっとつらい立場に追いやっている現実を訴える湯浅さんには、いつの間にか人びとを縛っている「自己責任」という言葉には我慢がならないようだ。
 そもそも、自己責任、なんていう物騒な言葉が日常でつかわれるようになったのは、なんといっても小泉純一郎が、戦時下のイラクにいた日本人ボランティア、「危いと警告しているところに、それを無視していったんだから、死のうと生きようと国の知った事じゃない、何がおこっても、自己責任だ」といったのが発端だろう。どこの国に行こうが、パスポートを発行した以上、自国民の安全を守る義務が有ると唱っている国の総理大臣とは思えない、デリカシーと思慮に欠けたこの発言が、どうして弱い物いじめの文化人達の免罪譜になるのか理解に苦しむけど、言ったやつとレベルが同じだったんだから、渡りに船だったんだろうね、って、別に感心してる訳じゃない、逆境にいる人間に対して、「それくらいじゃ苦しみ方が足りない、私の苦労に比べればまだまだ頑張れるはず」なんて人非人的発想は、すごく危険だし私には理解出来ない。隣で苦しんでいる人がいれば、たとえ見ず知らずの人だって、少しでもその苦しみを
軽くしてaげたいと思うのか゜人間だし(いや動物だって)自分が苦しんだ分だけ苦しまなけりゃ許してやらない、なんて恥をしれーじゃないですか。
 「自己責任を振りかざす人たちって、すごく苦労したんだろうけど、その事を誰も褒めてくれなかったでしょうね。私はこんなに苦労したのに、一人で頑張ってきたのに、誰も認めてくれない。だから、もしかしたら可哀想な人たちなのかも知れませんね」攻撃してくるその手の人たちに、まるて゛火に油を注ぐような事を面白そうに話す湯浅さんをみていると、軽く勝負がついちゃったかなーとおもうけど、人間なんて、生きてきた長さじゃなくて、考えの深さが価値を決めるんだなーと痛感する。
 それにしても、なんであんなに苦労した事を強調するんだろうかねー。もう死んじゃったけど、作家の向田邦子って人は直木賞取ったときに「下駄箱の上でささっと書いたもんが賞取っちゃってー」なんて、粋な事言ってくれたんだけど、ほんとの苦労人は、どんなに修羅場くぐったって、そんなことなんでもございませんって、涼しい顔してたもんですよ。水の下で必死で足をばたつかせていても、何事もなかったように泳いでいる水鳥みたいにね。まったく、苦労をひけらかすナンザ、やぼだよねー。
 なんか、ニュアンス違っちゃったかもしれないけど、とにかく、自己責任、なんていい加減な言葉で深刻な社会問題に蓋しないでほしいんだよね。第一、今の世の中、頑張ればどうにかなるって言う状態じゃなくなってる。がんばってもがんばつても、どうしても正社員になれない、ホームレスから抜けだせない。誰かが助けなければ彼らの苦労はなくならない、って事実を認識してほしい。
 「10年以上ホームレスの人たちと関わってきて、自力でアパートを借りられた人は僕が知ってる限り2人だけです。その内の一人は、食べる物も食べないで日雇いの仕事を頑張って、50万ためました。でも、そのせいで肝臓を壊して働けなくなってしまいました。これから20〜30年の間、彼は生活保護で暮らす事になりました。自己責任を全うして住まいを確保したために体を壊した彼を国は一生面倒見なければならなくなった。もし、もっと早く税金から補助が出ていたら、国の負担は軽くなったはず」
 何かにつけて、効率だの公平性だのつまんないことを言う行政の連中は、この事実をどう受け取るんだろうか、とっても知りたいわたしです。
 それにしてもやっぱり湯浅誠は、いい男でした。  

Qちゃんの決心

夏休みに入ってから(バイトが2ヶ月も休みなのだ)だらだら無為にすごしていたら、なんと何ともう八月。予想通りの冷夏? で、過ごしやすいのも手伝ってカバキーニョばっかりぽろぽろしていて、なかなかよた話の更新ができない。いかんいかん、それでなくても思考力が減退しているのに、これ以上思考を停止させたら、本格的なあほになる。とは思っていても、これがなかなかねー、だって、べつにしめきりがルワケじゃないし、読む人がまってる訳じゃないし、だだただ己のつまらん煩悩を垂れ流してるだけなんだからさ、書いたっていいし、書かなくたっていいし、と誠に意欲をそそらない環境にいるのにくわえて、最近富みに世間に対して幻滅していて、政治、経済、カルチャア、全てに対して興味が持てない。くだらない、あまりにくだらなくて、怒る気力もわかないのだ。いっそ自然消滅しちゃおうかなー、なんて、これは冗談だけど、とにかく、やるきのないことはなはだしい。
 ところが、ここにきて、家庭の事情というものが、私のやる気を喚起させてくれている。
 実は私のパートナーのQが、今年の夏おおいなる決意のもとに、23年間も続けていた事務所をしめることになったんだよね。Qの仕事はスタイリストで、昔は、一年中忙しく働いていたんだけど、いまは某住宅メーカーの、カタログなどを作るための撮影に関する仕事しかしてない。って、好んでしてない訳じゃなくて、広告業界が年々縮小していくのに従って、必然的にそうなったんだけど、とにかく、ここ10年くらいは、それでもなんとかやっていけたわけ。だけど、去年くらいから、どんどん仕事が少なくなって、ついに、もう事務所なんか置いておける状態じゃないことが判明したんだよね。だって、事務所を借りている家賃や、その維持費だけで、家の家族は暮らしていけるんじゃないのっていうくらいの金額になるんだから、収入が減ったら一番お金がかかるものから処分するのは常識。とっとととっぱらえばいいのにー、って私は思ってたんだけど、とうのQさんが、なかなかその気にならない。これまでも、何度か決断を迫られたんだけど、その度にチヨット仕事が入ったりして、マッいいかと現状維持をつづけ、まるで綱渡りというより、渡る綱をよろよろしながらまっていると言う、危い均衡状態をかろうじて保つ日々だったのよ。でもねー、こんな事いつまで続けてたって借金は減らないし、第一もったいないじゃない。自営に老後の保障は無いんだから、今のうちに老後に備えて準備しておかなくちゃいかんのよ。「しみじみと我が身をふりかえって感傷に浸ってる余裕なんかないの、さっさと決断しろー」例えパートナーといえども、お互いの考え方には介入しないつもりだったわたしも、ついに優柔不断おとこのお尻に火をつけた。
 「男のロマンだか未練だか知らないけど、どうしても事務所のこしたいんなら、私に愚痴らないでひとりでなんとかしなさい、それが出来なきゃやめる事、第一やめるって思うから寂しいんで、60歳なんだから定年、そのための引っ越しと思えばいいんじゃない? 仕事だってやめる訳じゃないんだから」
 などと、脅したりすかしたり、なんとかその気になるように説得して数週間、とにかく、事務所を引っ越す決断にいたったのでした。(くたびれたぜ ) 
というわけで、事務所を我が家の狭い空間に無理矢理割り込ませる事になったために、いろいろな準備をしなくちゃならなくなり、それがちょいとばかり私にやる気を出させてくれた。
 なにしろ、狭い家の中にものが一杯の状態なので、これをどう処分するのか、そして、事務所の荷物をどのくらいこちらに移動出来るのかを考えると、かなり大胆に発想を変えないといけないわけで、ぼーっとしているQに葉っぱもかけなくちゃなんないし、やる気が無いなんて言ってる場合じゃなくなった。
 なんとか9月いっぱいくらいで、事務所いっぱいのがらくたを片付けられるのか、いや、片付けなくてはー、などと、意気込みだけはすごい、今日この頃です。
 だれか、変な時計とか、つぼとか、役に立たない置物とか、いる人いませんかー

 

リバイバル ビリー隊長

去年、怒濤のように日本中を席巻した、ビリー隊長。あれから、せっかく割れた腹筋が、二度も三度も贅肉で補強されそうなくらい時間がたったしまいましたが、ついに、私の下にも隊長はやってまいりました。
 ていっても、もちろん彼がおさまってるCDを、マユミが手に入れただけなんですけど、やってきたその日から、私の肉体を叱咤激励し続けてくださっております。
 なにしろ、去年のガン騒動がおさまってから、どうせ5年の生存率だし、やりたい事やって、食べたいもん食べて、飲みたいもん飲んで、我慢なんかしてたら時間の無駄ジャー、などと、別にそれまでだって「あんたなんかがまんしてました? 」と、言われるに決まっているような生活態度だったのに、ガンを盾に、皆様の非難の目をかいくぐって参りましたが、気がつけば、その報いに体の真ん中にあるべき、他より細いところ(別名くびれとも言います)が、見事に消滅し、あまつさえ横から見ると出っ張っている、というひどい変わりよう。これには、余命5年と覚悟はしているものの、その5年間をこの体型で過ごすのかと思うと、ちょっとねー、しんどいわけで、しかも、時間を追うごとに、この現象は拡大していくわけで、そうなると、ガンで逝くのか、肥満で逝くのか、どうせ逝くなら人間の形を残したまま惜しまれていきたい、間違っても、周りの方々に「あー、大きな肉塊が消失した」などという記憶を残したくはないなー、なんて人並みな思いが頭をよぎり、というより、バレエのレッスンのたびに、いや、ストレッチをするたびにおなかの肉が前屈の障害になっている現実をなんとかしたい一心で、はじめましたよ、ビリーちゃん。
 はじめてみると、すごいねー。想像以上にヘビーだね、ビリーちゃん。
 私が試みたのは基礎編と腹筋編なんだけど、どちらも、最後には「こんなこと出来ねー」と放り出したくらい、過酷な内容。
 まあね、わたしだって、だてに週5回以上の、バレエレッスンを続けているわけではないので、かなり体力には自信があり、実際、ひとつひとつの動きは、そう大変じゃないんだけど、ワンレッスン約50分の間中、動き続けているって言うところがなかなかきつくて、終わりの方のスクワット、例えば横座りのまま、両足を上げるとか、仰向けから腹筋の力だけで起き上がる動きとかに進むと、「出来ねー」と本気でタオル投げてしまうのでありますよ。って、我ながら情けないんだけど、本当に情けないのはそれから後で、これやって、バレエのレッスンにいったら、もうへろへろで、笑っちゃうほど力がでないのだ。やっぱねー、体力を過信しちゃいけない。それからは、日に二回レッスンがある時はお休みしてんだけど、バレエの先生なんか、「あれやったら1日何も出来なくなる」っていうんだから、わたしだけじゃないんだよ。えっ?じゃあ、去年最初に飛びついた若者達って、あれやりながら仕事してたんでしょ? 以外に体力あるんだよね、とつまんない事に気づいたりした。
 でもね、これってかなりこうかがあって、胃の出っ張りが少し修正されましたよ。まだ1週間もやってないのに……。
と、どうせ暇な私は、下腹部のラインが平坦になるまで、なんとか続けようと思っている次第です。うー、秋には見違えるようなボディになってたりしてー、てなことはないか。と


calendar
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28      
<< February 2010 >>
sponsored links
selected entries
archives
recent trackback
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM